昭和52年01月06日 朝の御理解
御理解 第74節
「可愛いと思う心が神心じゃ。」
可愛いと思う心が神心じゃと。自分の身が可愛ゆくない者は有りません。自分の身内の者が可愛いのもまた当然。孫なんかはそれこそ眼の中に入れても痛くない程しに可愛い。だからそういう可愛いではない様ですね。可愛いと思う心が神心。自分の身が可愛い、自分の肉親の者が可愛い、好きな人が可愛い、そういう可愛いではないが、そういう可愛いさが、それが言うならば自分以外の人達の上に掛けられる。言うなら赤の他人の誰それにでも、そういう可愛いと思う心が掛けられる、それが神心だと思うですね。
自分の身可愛いという、そうなって参りますと自分の身がそれこそ泉尾の三宅先生じゃないけれども、我が身はどうなっても良いとこう言われる。人の幸せのためなら人が助かるなら。私がもし死ぬ時に安楽往生を遂げる様な事であったら、私が今まで言うてきた事は皆嘘だと仰る。私はもう七転八倒の苦しみを以て死んでいくだろう。そしてこの世のありとあらゆる難儀を持っていくのじゃ、担いでいくのじゃと、もうそれを断言されるそうですね。素晴らしいです。そういう心が神心、だからとてもとても私共が真似の出来る事じゃないなと思います。
まあ自分の身も可愛い、人も可愛い、段々自分の身の可愛いと言うことじゃあなくて、本当に可愛いと思う心が、出来てくると、自分の身を犠牲にしてでも、その人が助かるならば、という様な願いやら、思いやらが掛けられる様にもなりますね、段々。所謂犠牲的な心が旺盛な人があります。もう我が身はどうなってもいい、あの人が立ち行くならばといった様な思い方。
そういう私は神心を目指して行くという事、同時に神心ですから、それが神様を信じ、天地の働きを分からせて貰い、神様の御思いが分かるから、自ずと使われる心、それが神心です。神様の心が分かるから、神様のそれこそ凄まじいまでの、お働きを信ずる事が出来るから、言うならば神心という、その裏付けは自他共に助かるほどしの力を得て、初めて神心と〔聞き取り不能〕のです。そこで力を受けなければならんという事です。
昨夜遅く御祈念さして貰う時に、皆の事をお願いします中に、此処の修行生の方、特に今学院に行っとります、いま勉強中の学院生達のことを、お願いさせて頂きよりましたら、私の茶の間に、この前、伊万里行きをしました時にお土産に頂いて参りました、布袋さんが有ります。白磁のもう見事な布袋さんです。その布袋さんが、袋を傍に置いておられるところを頂く。
そしてその表情がね、こりゃもう重うして持ちきらんと、いう様な表情のところを頂くんです。だからやはり学院にでも行く、お道の教師にでも、お取り立て頂きたいと願うのですから、もう末はやはり生神を目指す程しの、いうならまあ、内容というかそういうものを持っておるし、神様もまた授けたいという。布袋さんといやあ、一つの神格でしょう。だからその、例えば持っておる、その袋が軽々と持てれるような、言うなら力を受けることだという事です。
もう自分の一寸した問題でも、もう持ちきらん。いわゆる朝眠かちゃもう朝の御祈念を御無礼する、そこにいわゆる辛抱力と言う力、又一つのそれぞれ難儀を持たないものは有りません,もういろんな難儀、又腹の立ってこたえん様な事も有りますけれども、そういうものを黙って受ける力、そういう力が、私頂けて初めて人の物でも持ってやれる力というものにまでなってくるのです。
それも千人も万人もの難儀を我が身一つにひっ担うて、泉尾の先生じゃないけれども、死ぬる時には、只じゃ死なん、皆のそういう難儀を持って行くんだ、だから私は安楽往生はしないとまでその言われるんだ。力だ。だから神心。本当に可哀相な可愛いとこういうのは、幾らもありますけれども、私今日改めて、ここん所を頂き直したわけですけれども、神心には力を持った、いわば神心でなからなければ神心とは言えない。
それこそ我が身可愛い身内の者が可愛いもうそれこそ孫なんかだったら眼の中に入れても痛くない程に可愛い。そういう心がそれが赤の他人の上にでも使える様になるということだ神心とは。だからそれまでの過程がです、私共が神様をいよいよ確信出来れる信心修行がでけなければそういう心は起こってこない。世の難儀、人間の幸福人間の助かりを願って願って止まない、言うならば心の状態、信心の心が段々成長して行くという事は一歩一歩生神へ向かっての精進なんです。
昨日は学生会が昼ございました。私二時から暫くお話しをさせて頂いた。もう体がここ二三日お食事を全然という程しに頂いてもう粥を少しばっかししか頂かない、だからこう精気がない。昨日学生会の方達に、いろいろお話をしておる内に、段々段々こう力が出て来た。そして本当にもう激しいまでの口調でお話をさせて頂き、終わったら何か体がスッキリした。
それが昨日石井喜代司さんが言ってましたが、丁度子供達が一緒にお参りをしておって、私の話声がテ-プに流れておるのを聞いて、合楽の親先生の話はもう偉い迫力があるねと言うて、今五年生かなんかの子供です栄四郎という。もうその迫力というものはどこから出て来るかというとです、もう助けずにはおかん、分からせずにはおかんと言うのが、やはりつい熱を帯びてくるわけです。
夜は壮年部会でした。まあ色々お話を聞かせて貰ったりさせて頂たんですけども、石井喜代司さんが発表しとりましたが。この頃から一人の方を首にせなければならない事情が起こったんです。そこでその人を首にするために、もう大変な神心になり切って、もう一修行をさせて貰うて、そしてその事を伝えた。とてもそんな風で、受けられる人ではないのだけれども、もう大変その主人の温情にふれて、もう退職金なんかは頂きませんと言うて、そのまあ遠方の人だったんでしょう、わざわざ送って行ったら向こうの方では両親から大歓迎を受けたという話を致しとりました。
本当におかげを頂く人は違いますね。いうなら本当に神心です。もうこん奴は、こん奴というと、こん奴ですたいね。もうろくな奴じゃなかけんで、もう首にする、もうお前は止めろと。それなら退職金を出せ、うん退職金出すけん早う止めろ、という様な風にもなりかねない所なんですけれども、それを止めさせる迄に、非常に時間をかけてある。そしてもういよいよいかん所で、もうそれこそ神心を持って、もうコンコンと一時間位話したそうです。
そしたら初めて分かったと、いう様にして退職金等はいりません、今までえらいお世話になったからと、いうて言ったという話を昨日しとりました。やっぱり神心だと思うですね。所謂神様を信ずる力、辛抱力、例えば私の、この修行生の方達がです、此処で修行しておる内に、何をいうならば体得するかというと。いうなら合楽理念をマスタ-するわけですけども、それには中身が辛抱力が、力が頂けなければ。どういう難儀でも、平気で持てれる力を今養っとかなければ。
ちょっと問題があると、もう顔色が変わる様な事では、人を助けるという力にはならない、いや自分の持っとる、大きなあの頭陀袋の位のことじゃない、人の分までも持ってやろうという位の力を頂かなければならない所に、私は信心修行が必要だと思うんです。どんなに、合楽理念の、ほんなら素晴らしいことが分かったところで、それに力が伴わなかったら、どんなに、日に日に神へ向かってもというてもです。神に向かったら向かっただけの、いうなら神様の力の様なですかね、神力と思われる様な力が、自分にも備わって来る修行を、させて貰わなきゃならない。
本当に天地の働きの凄まじいまでの働き、今此処の修行生の方達が、沢山おりますから、御本部と同じに、こういう、御用日誌というものが出来て、一人ずつ白衣をつけとる人達が、毎日正奉仕の人達なんです。そして私の出仕するための御用なんかでも、その人達がさせて頂く事になりました。それで日誌を読ませ頂いとりますと、その日の主だった、おかげを頂いておる様なおかげの事が書いてございます。こりゃなかなか良かことを書いているなと思うて。その日一日のいろんな出来事やらが書いてあるんです。
昨日は光昭君です。稲員の中垣カツヨさん、屋敷内に無数のミミズと、モグラが出て地盤沈下のため困っておられたのが、お願いをさせて頂いたのを境に、一匹のミミズもモグラも、どこえ行ったか分からない程にいなくなったと、いう様なお届け書きがありました。これはもう凄まじいまでの、天地の働きと言わなければおられない。これはもう二ヵ月位まえのお届けでした。それが先月からもう全然ミミズが居なくなった。
周囲が堀だそうです、それですからそこから入って来る。その穴が無数にして上に盛り上がって来る、屋敷が大変に広いお家だそうです、それがねもうこんな事までお願いして良いでしょうか、天地の親神様にお願いするとじゃけん、お願いせにゃ私達やもう野菜も何も出来んから、お願いさせて貰うと言うてお願いさせて頂いて、そういうおかげを頂いたと。だから昨日此処でお届けされてから、あのモグラやらミミズを神様は何処さやんなさったじゃろうかと私は不思議で不思議でたまりませんち言うてお届けをされる。
そりゃあまあ本当に天地の凄まじいまでのお働きなんです。その前日の所を読んでみましょう。子宮癌のお願いをしておられた諸岡智恵子さんがお礼参拝。肝臓癌のお願いになっておった黒岩スイ子さん最後の精密検査のとき、癌もなにも全く嘘の様に消えて無くなっておった。福岡の宮脇只雄さん原因不明の激痛の起こる病気の人、おかげの泉を読んでおかげを頂かれた二度目のお礼参拝があった、という様な事が書いてある。もうこれが毎日毎日ですからね。凄まじいでしょうが。
だからそういう凄まじい、神様の働きを確信する、信ずる、信ずる、所謂力なんです。それがね、やはり本気で改まり、本気で研く事に精進しよらんと、そういう話を聞いただけでは、信ずる力になってこないです。言うならば、何処を焦点に精進するかと言うと、神心を目指しての信心。だれでも可愛いと思う心は持っておる、その証拠には自分が可愛ゆうてたまらん、孫なんかはもう、眼の中にいれても痛くない程に可愛い。だから可愛い心を持っておる事だけは間違いないです。
だからその心が、人の助かる事の為にも使えれる程しの、可愛いと思う心が、神心であると同時に、その神心には辛抱力がいる、言うならば力がいるんだという事を、また力が伴わなければ出来ない。可愛いと思う心が神心じゃ、これは誰しも、自分の身を可愛いと思う、可愛い心を持っておるけれども、それはの神心ではない、むしろ凡情だ。
けどもそういう我が身可愛いと思う、その心が人にまで使える時に、初めて神心だと言う事です。信心修行させて頂いて言うなら辛抱力、本当にカ-ッとするごと腹ん立つ様な問題でも、ジッとそれを修行として、例えば受けれる辛抱力。ああ眠たいばってんそこを、言うならば布団を蹴って起きる程しの、言うならば辛抱力、修行精神、その修行精神に私、力が約束されると思うんです。
修行をだから抜きにしては、神心は生まれないという事を。例えば、もうあんた合楽の親先生は大したお方じゃ、もう信じとりますと言うてもです、それは只話を聞いたりしてから信じておるだけの事、だから本当の信心じゃない。自分の事に至っても、やはりそれが信じられる、自分の難儀な難儀に至っても、それが御神愛であると信じられる力、その力の伴うた、私は可愛いでなからなれば、神心ではないと言う事を今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。